雑感 「すべての四月のために」

心穏やかでいられない今日この頃。

でもそれについては何も言うことはないです。

なるべく早く、誰の傷も癒えてくれることを願うばかり。

 

 

今更ながら「すべての~」について書きました。

何度も何度も書きかけて、違う、こういうんじゃないと途中で破棄。

だからといっていいものが書けたとは思わないけど、お芝居を観た感想が書きたかったのです。

剛くんを見た感想ではなく。

○○したところが可愛かった!とか○○ってセリフの言い方最高!とかじゃなく。

ちなみに私は3回観ました。

もっと観たかったけど、仕事のことやなんやかんやで3回が限界。

席は2回目がいちばん近かったのですが、隣の2連のマナーが底辺に近かったのでとても残念でした。

FCでチケットとってたようなので、3月で降りてくれてるといいな、と思います。

ファンが減るのは寂しいけど、正直、あの人たちはサヨナラしてほしい。

 

 

 

 

「すべての四月のために」というタイトルを目にしたとき、哀しい話なのだろうな、と思った。

理由はうまく説明できないけれど、「すべて」という単語に何となくそれを感じたのだ。

哀しいことが、乗り越えなければならないことが、一度ならずやってくる。

だからこその「すべて」なのかな、と思った。

 

ポスターからは静かでささやかな幸福のようなものを感じた。

女性たちに囲まれ、髪を切られようとする剛くんが照れたように笑っていたから。

この段階で私が想像したのは、剛くん(の演じる役)を巡る悲恋。

たとえば本当に思う相手以外と結婚したけれど、その相手も妻となった人も傷つけて、戦時ということもあり心が通じ合わないまま命を落とす、とか。

ポスターと同時期に撮影されたと思われる雑誌のグラビアでも、剛くんは物憂そうで儚く佇んでいた。少なくとも、私にはそう見えた。

手のひらの砂に視線を落とす一枚が、強く印象に残っている。

喪失するのだ、と思った。

それが何か、誰か、あるいは何もかもなのか。

少しずつ情報公開されていく間、いろいろなことを考えた。

 

結果、まるで違うものを見たのだけれど。

 

 

 

大きなリュックを背負って、剛くんが舞台に姿を見せる。

ペットボトルの水を一気に飲み干し、客席に向かって話し出す。

声に、息を飲んだ。

舞台での剛くんの声は、特別だと思う。

私がこの人のファンだから、それだけが理由ではないと思いたい。

すべてを持っていく声だ。

聞き流すことができず、もっともっとと求めずにいられなくなる声だ。

最初に観劇したときは1階後方の席だったけれど、もしも最前列なんかだったらどうなっていただろうかと不安になる。

いつか、そんな日も来てほしいとは思うけれど。

 

朗らかで優しいお父さんと、強くあたたかいお母さん。

テンポよく会話が進み、過ぎた日を二人は懐かしむ。

あれは四月だった、幸福な日だったと。

そしてやわらかな光が射し、花びらが舞い降りてくる。

映画を見ているような、スローモーションで訪れる晴の日の群像。

誰もが笑っていて、浮かれてさえいた。

その内容は聞き取れなくても、舞台上のそこかしこで他愛なくも和やかな会話が繰り広げられている。

二度目、三度目の観劇の時には特に注意して舞台上の全員に目を向けるように心がけていたのだけれど、本当に誰もがそこに「いて」、その空気の一部だったと思う。

 

喜ばしい日の心地よい喧騒の中にも、けれどいくつかの小石が投げ込まれて誰かの心が揺れる。

それに気づかぬ者もいるし、気づいて傍観する者、どうにかしようと声を上げる者もいる。

やがて、唐突にもたらされる理不尽な知らせ。

 

誰もが望む形ではいられなかった。

それをとりあえず受け入れて、何も変わらないような顔をするお父さんは一家の救いだったと思う。

気の強さと家族への愛情を隠さないお母さんも、また。

望みすぎないけれど、諦めることも卑屈になることもない冬子。

夢が遠くても虚勢を張って、それを力にできる夏子。

変わるのを待つのではなく変える術を探して、行動した春子。

私の目には、そんな家族の中にあって秋子は少し、心を寄せられない存在に映った。

賢くて情の深い女性なのだと思う。

とても人間らしいのだと思う。

教師として理想も信念もあって、けれどそれは時代と環境によって踏みつけにされてしまう。

想う人と結ばれたはずなのに、彼の心が自分の傍にあると実感できない。

だから姉を慕いながらも、冷たい言葉を吐き当たってしまう。

そして、過ちを犯した。

 

一度のことならよかったのに、と思った。

おそらくはその後も続いていて、周囲の知るところとなっても開き直ったかのように振舞っていた。

死へ向かう若い兵士にはわずかな救い、慰めになっただろうと思う。

でも、やはり過ちなんだろう。

なのに後になって、夫をいらぬもののように嘲笑ったことは私には理解しがたいことだった。

頼りになるとは言えないし、良い夫とは言い難いかもしれないけれど、秋子だって彼をひどく傷つけていたのに。

だからあの場面は、皆が笑っていたけれど私は少し複雑な気持ちで見ていた。

それでもふたりの間には新しい命が宿り、それは互いにとって、家族にとって希望になった。

夫婦ってそういうものなんだろうか。

確かな信頼がなくても、罪を知っていても、責めても、疑っても、何かが間を繋げば全部を飲み込んでともに生きられるものなんだろうか。

私には夫がいない、持ったこともない。

何だか不思議な気持ちで、旅立つ夫婦を見ていた。

それでも、彼らの幸福を願った。

願えたのだから、それでいいかと納得した。

 

 

観劇した直後は、春子のことが最も鮮烈に思い出された。

いくつか読んだ感想やレビューでも、春子のことが多く触れられていたように思う。

それでも今、時がたって思い返すのは萬石と秋子という夫婦のことが中心だ。

剛くんが演じた萬石は、物語を動かす役回りではなかった。

家族が彼を頼みにしていたという描写もなく、何か大きなことを成したわけでもなく、いかにも主役であるとは言い難い。

けれども彼は家族の記憶に眩しい四月にその一員となり、理髪店の手伝いをしたり食料の調達に出たりと自然にそこに在り、妻の裏切りの後も去ることなく、家族の不和も離別もともに越えて、血を繋いで家族の歴史の一部になった。

そして、幸福だったと遺した。

たくましくはなくても、彼は強かったと思う。

そういう彼を見せてくれた剛くんに、彼に萬石役をくれた鄭氏に心から感謝を。

 

 

 

演技について語る素養は私にはないので、このあたりで。

でもとてもよい舞台だった。

シンプルにそう思う。

観てよかった、また観たいと思えることが一番ではないかな、素人には。

悲しいことにいつかは記憶も薄れるだろうけど、まだ折に触れていろいろな場面を思い出せる。

冬の終わりのころ、とても寒いけれど天気は良かった日。

書類を届けて自席に戻ろうと、ふと視線を向けた窓の向こうで風花が舞っていた。

それはあの四月の舞い散る桜を思わせた。

家族の幸福の日、それから千穐楽のカーテンコール。

もう一度、あの家族に会いたいと思う。

 

 

でもきっと、そう思えていることが幸福なのだ。